目的に合った練習だったかを反省する

 教える際に気をつけることは、学生の目的に合わせる、ということでした。学習者が会話ができるようになりたいと思っているのなら、

○学習者に会話の練習をさせる。

というのが目的に合ったことです。しかし、養成講座の実践演習では「説明すること」に力が入り過ぎてしまうことが多いようです。授業の前に一生懸命予習をして、補助教材も作ってくるのですが、演習では与えられた時間を精一杯「説明すること」に費やしてしまうのです。学生はその間、先生の説明を聞くだけで、ほとんど発言する機会がありません。

 演習授業をした受講生は、一生懸命教えたということで、授業後に達成感を感じているかもしれません。けれでも、本来の目的である「学生が日本語を話せるようになること」は達成できたのでしょうか。

 この演習授業によって学生が話せるようになったかどうかの確認は、学生の発話を聞いてみないと分かりません。しかし、授業中に学生が発話するチャンスがなかったので、この授業には学生が話せるようになったかどうかを確認するチャンスさえなかったのです。

○会話ができるようになるには、会話の練習をする。

という原則は、この演習授業のように忘れられてしまうことが多いのです。しかし、教える側は一生懸命説明したので、教えたつもりになっているのが大きな問題です。この問題は、養成講座ではなく、修了生がその後働くことになる日本語学校でも起こります。

 例えば、ある新人の講師が初級クラスに入って教え始め、毎回毎回一生懸命、教室で「説明」したとします。そうして1週間、2週間、3週間と過ぎたある日、この新人の先生は気が付きます。

毎回こんなに一生懸命教えているのに、学生は日本語が話せるようになっていない。

という事実に。そう気づいた時に、教え方に問題がある(つまり、講師が説明するばかりで、学生に発話をさせる機会が圧倒的に少ない)と反省できればいいのですが、そうではなく、

「このクラスの学生は語学センスがないのだ」
「もともと消極的でおとなしい性格の人が多いのだ」

などと、学生側に原因があると考えるようだと、いつまでたっても、学生は話せるようになりません。

 しかし残念なことに、教える側が「私は一生懸命教えている」という意識があるために、学生が話せるようにならない原因が講師側にではなく、学生側にあると考えてしまう危険があるのです。

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