教える=説明する、という観念を壊す

 「話す」「聞く」「読む」「書く」の4技能のうち、どの技能を伸ばすのかというのは学習者の目的によって決まります。文字の習得についても同様に、文字を覚えることが学習者にとって必要なことなのかを学習者の目的から判断します。もし必要でないなら、余った時間を学習者が必要としている技能を伸ばすことに使えば学習効率がよくなります。

 日本語学習者が「会話ができるようになりたい」という希望を持っていて、会話の習得を目的として学校へ来ているのなら、講師は「会話ができるようになる」という目的に沿った授業をしなければなりません。実際、この「会話ができるようにないたい」、または「会話も当然、読み書きも」と思っている人が日本語学習者の大多数ではないでしょうか。

 こういうニーズに合わせて、養成講座でも日本語学習者が会話ができるようになるために、あるいは会話を中心に4技能をバランスよく習得できるように、という方針で教えているはずです。しかし、養成講座の受講生が行う実践演習では、この「学習者の目的に合った授業」ができていないというケースが数多く見られます。つまり、

「日本語学習者は会話ができるようになりたいと思っているのに会話の練習をしない」

という授業です。学習者が求めていることと、講師が教えていることにずれが生じるわけです。こういう授業になってしまうのにはいくつかの原因があると思われますが、やはり最大の原因は、「教える」ということに対する固定観念が教える側に出来上がっていることではないでしょうか。それはどんなイメージかというと、

「勉強というのは、先生が説明することを黙っておとなしく聞くこと」

というものです。小学校、中学校、高校と続く十数年の年月の中でできあがった勉強に対するイメージです。先生が黒板の前に立って、50分間話す。そして、学生は黙ってそれを聞く。先生に指名されたら、答える。発言を許可されなければ話さない。長い間こういう環境の中で学校教育を受けてきたので、学校での勉強というものは先生が話すことをおとなしく聞くものだ、というイメージができあがっているのです。

 ですから、受講生が教壇に立って実践演習を始めると、どうしても一生懸命説明しようとしてしまいます。自分は教師だから教えなければならない、教える=教師が説明すること、というイメージのままの授業をしているのだと思います。

 しかし、日本語学習者の目的が「会話ができるようになること」である限り、この「教えること=説明すること」という固定観念は、養成講座の受講生には壊してもらわなければなりません。

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